Linkin Park(リンキン・パーク)

幅広いジャンルの音楽要素を取り入れており、オルタナティブ・ミュージックの独自のミュージック・センスを持つ。

チェスター・チャールズ・ベニントン


■チェスター・チャールズ・ベニントン(Chester Charles Bennington、1976年3月20日-)

<幼少期>
ベニントンはアリゾナ州フェニックスで生まれた。子供の頃から音楽に興味を持ち、デペッシュ・モードやストーン・テンプル・パイロッツの影響を受けた。ベニントンの両親は1980年代後半に離婚した。彼は幼い時から性的虐待を受け、後にコカインやメタンフェタミンに溺れた。ベニントンは薬物中毒を克服し、今ではインタビューで薬物の使用を非難している。彼はプロのミュージシャンになる前、バーガーキングで働いていた。


<プロフェッショナルとして>
リンキン・パークに加入する前、ベニントンはフェニックスでグランジバンドのGrey Dazeで活動していた。1998年にGrey Dazeを脱退したが、しばらくは新しいバンドが見つからなかった。音楽を諦めかけていたころ、ロサンゼルスにあるZomba Musicの副社長ジェフ・ブルーが彼をリンキン・パークのボーカルのオーディションに誘った。ベニントンは仕事を辞め、家族をカリフォルニア州に呼び寄せ、オーディションにも合格した。ベニントンと前のボーカルだったマイク・シノダは素晴らしい成功を収めたが、なかなかレコードの発売には至らなかった。しかしジェフ・ブルーの力添えがあったおかげでワーナー・ブラザーズ・レコードと契約することができた。

2000年代初頭の驚異的な成功にも関わらず、ベニントンはステージの外では多くの問題を抱えていた。もともと彼は病弱で、2001年のオズフェストの最中にドクイトグモに腕を噛まれてしまった。Meteoraの製作中にも健康に悩まされた。2003年夏には病気に倒れた。2007年10月にはメルボルンでのステージで舞台に飛び乗ろうとした時に手首に怪我を負ったが、演奏を続け、終了後すぐに救急救命室に運び込まれた。


<私生活>
ベニントンは1996年10月31日に最初の妻サマンサと結婚した。2002年4月19日には子供が産まれ、ドレイヴン・セバスチャンと名づけられた。ベニントンは、最初の妻であるサマンサとは、リンキン・パークの活動の中ですれ違いが多くなり、2005年に離婚に至った。サマンサとの離婚後、ベニントンは元プレイメイトのタリンダ・ベントレーと再婚し、二人の間に生まれた子供をタイラー・リーと名づけた。彼の家族はカリフォルニア州オレンジ郡のニューポートビーチにある6000平方フィートの豪邸に住んでいる。

彼は2006年公開のジェイソン・ステイサム主演の映画「アドレナリン」にカメオ出演している。また入れ墨の愛好者である。体中に入れ墨とピアスがあるだけでなく、アリゾナ州テンピにあるタトゥーショップ「Club Tattoo」の共同経営者でもある。このタトゥーショップは雑誌などにも多く取り上げられ評価されており、ニューヨークでアートショーが開催されたほどである。





ヒストリー


<バンドの結成>
マイク・シノダ (Mike Shinoda) とブラッド・デルソン (Brad Delson) は、南カリフォルニア、ロサンゼルスのアゴーラ・ヒルズ (Agoura Hills) にある中学、高校からの親友。鑑賞したパブリック・エナミーとアンスラックスのコンサートに衝撃を受け、バンドの結成を決意した二人は、1996年のアゴーラ高校 (Agoura High School) 卒業時に友人だったロブ・ボードン (Rob Bourdon) を誘い、バンドSuper Xeroを結成する。(ブラッドとロブは、かつて「Relative Degree」というバンドで共に活動していた)その後、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)でブラッドがアパートをシェアしていたルームメイト、フェニックス (Dave "Phoenix" Farrell) と、マイクがパサデナ (Pasadena) のアートセンター・カレッジ・オブ・デザインで知り合ったジョー・ハーン (Joe Hahn) (イラストの勉強をしていた。)が加入した。2人の加入後、バンド名は短縮されXeroとなる。5人組となった彼らは、さらにマーク・ウェイクフィールドを加え、初のデモテープを自主制作した。


<結成初期>
結成当初(1996年頃)はメンバーがバンド活動・学業・仕事の両立に四苦八苦していた上、活動は上向かず、ライヴの客入りは寂しかった。1998年にはリードボーカルを担当していたマークが脱退した。彼の後任を探していたメンバーは、Zomba Recordingsの有力スタッフだったジェフ・ブルーを通じて、9年間ソロや他のバンドで歌っていたアリゾナ州フェニックスのボーカリスト、チェスター・ベニントン (Chester Bennington) を知る。1999年、デモテープを受け取ったチェスターはその音響に感銘し、オーディションを受け加入が即決定した。オーディションの際、彼の卓越した歌声を聴いた他の候補者は帰って行ってしまったという。チェスターを迎えたのを機に、バンドのコンセプトを明確にするためバンド名をXeroからハイブリッド・セオリーに改名、ハイブリッド・セオリー名義でEP作品のハイブリッド・セオリーEP(Hybrid Theory EP) を1000枚自主制作した。フェニックスは、1999年から2000年後半にかけて他のバンドのツアーに参加するため、バンドから一時離れたが、2001年の『Crawling』のPV撮影から復帰した。


<ワーナーと契約>
チェスターの加わったハイブリッド・セオリーは42社ものレーベルを訪れたが、一向に契約を結べないでいた。しかし先述のジュフ・ブルーがワーナー・ブラザーズ・レコードA&R部門(新人アーティストを発掘・デビューさせる部門)に移籍していたこともあり、ワーナーとの契約締結に漕ぎ着けた。ところがワーナーにはすでに同名バンドが存在していたことからバンド名を改名することになる。チェスターは、定期的に車で通りかかっていたサンタモニカの公園の名前に因み、LINCOLN PARKという名称への改名を提案したが、インターネットのドメイン名がおさえられていたために断念。結局LINCOLN PARKと同じ発音であるLINKIN PARKに落ち着くこととなった。


<メジャーデビュー(2000年-2002年)>
2000年10月、ドン・ギルモアのプロデュースで1stフルアルバム『ハイブリッド・セオリー』 (Hybrid Theory) をリリース。多くの音楽ファンから好評を受けビルボード・アルバムチャート (Billboard 200) で初登場16位、最高位2位を記録(以下、「全米○位」と表記)。アメリカで2001年に最も売れたアルバムに認定され[1]、現在までに世界で1900万枚を売り上げている[2]。収録曲のいくつかは、映画のドラキュリア、リトル★ニッキー、バレンタインなどでフィーチャーされた[2]。2001年にデビューシングル『One Step Closer 』をリリースし、同年11月、初の映像作品集『フラット・パーティー』 (Frat Party at the Pankake Festival) を4thシングル『In the End』と同時にリリースした。

アルバムの大ヒットを機にオズフェストや「オールモスト・アコースティック・クリスマス」(ラジオ局KROQ主催)、「ファミリー・バリュー・ツアー」など多くのツアー、コンサートに参加。オズフェストではブラック・サバス、マリリン・マンソン、スリップノット、パパ・ローチ、ディスターブド、クレイジー・タウン、ブラック・レーベル・ソサイアティなどと競演した[3]。この年には324本のライブをこなした。2001年11月、バンドと親しいJessica Bardasの提案で、公式ファンクラブ「リンキン・パーク・アンダーグラウンド」 (Linkin Park Underground、LPU) が設立される[3]。2002年には自らが立ち上げたコンサート・ツアー、プロジェクト・レボリューション (Projekt Revolution) の初公演が行われた。初のフィーチャリングはアデマ (Adema)、サイプレス・ヒル (Cypress Hill)、DJ Z-Tripだった[3]。

2002年に開催された第44回グラミー賞で3つの部門にノミネートされ[9][10]、『ハイブリッド・セオリー』からの2ndシングル『クローリング』 (Crawling) でベスト・ハード・ ロック・パフォーマンス部門を受賞した。[1]ちなみに授賞式の際、会場入り口で写真撮影に応じていた時に受賞がアナウンスされてしまい、受賞決定の瞬間をメンバーたちは聞けなかったというエピソードがある[11]。

同年7月、『ハイブリッド・セオリー』のリミックス・アルバム『リアニメーション』 (Reanimation) をリリースし、全米初登場2位を獲得。発売週だけで27万枚以上を売り上げ[12]、リミックス・アルバムとしての初動売り上げ記録を更新した。


<2003年-2006年>
2003年3月、2ndアルバム『メテオラ』 (Meteora) をリリース。初週に81万枚を売り上げ、アメリカとイギリスで初登場1位を獲得した[8]。現在までに全世界で1000万枚以上の売り上げを記録している[1]。同年11月には1stライヴ・アルバム『ライブ・イン・テキサス』 (Live In Texas) を、2004年にはラッパー、ジェイ・Z (Jay-Z) とのマッシュ・アップ作品『コリジョン・コース』 (Collision Course) をリリースし、後者は全米初登場1位となった。なお、ジェイ・Zは2005年にバンドMCのマイク・シノダが立ち上げたサイド・プロジェクト「フォート・マイナー」に、エグゼクティブ・プロデューサーとして参加している。

2003年4月8日から行われたプロジェクト・レボリューションのツアーに、アメリカの軍人とその家族を特別ゲストとして招待、「国のために自ら犠牲を払っている人たちに対して、お返しをする必要があると思う。」と述べ、軍人らを称えた[13]。2004年に東南アジア地域がスマトラ島沖地震による災害に見舞われた際には、赤十字の協力のもとに基金団体「ミュージック・フォー・リリーフ」を設立、バンド自身も10万ドルを寄付し、ファンらにも寄付を呼びかけた[14]。また2005年、チェスター・ベニントンは、アメリカ南東部を襲ったハリケーン・カトリーナの被害救済のチャリティー企画に参加した[15]。(モトリー・クルーのヒット曲『Home Sweet Home』を再レコーディングし、その売上げを被害救済に充てるというもの。)

2006年、ジェイ・Z feat. リンキン・パークの『ナム/アンコール』 (Numb/Encore) で第48回グラミー賞の最優秀ラップ/ ソング・コラボレーション部門を受賞[16]。開会式でポール・マッカートニー、ジェイ・Zとともに『ナム/アンコール』『イエスタデイ』を披露した。また、サマーソニック06(ゼロシックス)のヘッドライナーとして来日、新曲『QWERTY』を披露した。その前日には単独公演も行った。


<2007年-現在>
2007年5月、リック・ルービンをプロデューサーに迎え、実に4年2ヶ月ぶりとなる3枚目のオリジナルアルバム『ミニッツ・トゥ・ミッドナイト』(Minutes To Midnight) をリリース。音楽性で大きな路線変更があり、賛否両論が起こったものの、アメリカ、日本を初め世界31ヶ国で1位を獲得[14]。そのほとんどの国々でプラチナ・ディスク、ゴールド・ディスクの認定を受けた。また、アルバムからの1stシングル「ワット・アイヴ・ダン」が、スティーヴン・スピルバーグ制作総指揮の映画、「トランスフォーマー」の主題歌に使用された。 2007年7月に世界7大都市で同時開催されたチャリティーコンサート、「ライヴ・アース」 (LIVE EARTH) の東京公演に、ヘッドライナーとして出演した。同年11月には来日公演の「JAPAN TOUR 2007」が開催され、その際に来日記念盤として、『ミニッツ・トゥ・ミッドナイト―ツアー・エディション』(Minutes To Midnight -Tour Edition)がリリースされた。

2008年4月、ラッパーのバスタ・ライムスとのコラボレーション曲「ウィ・メイド・イット」 (We Made It) のシングルCDをリリース。この曲は当初、バスタ・ライムスの新アルバムに収録される予定だったが、最終的には収録に至っていない。 2008年11月には二枚目となるライヴアルバム『ロード・トゥ・レヴォリューション』(ROAD TO REVOLUTION: LIVE AT MILTON KEYNES) と、未発表音源を収録したミニ・アルバム『ソングス・フロム・ジ・アンダーグラウンド』 (Songs From The Underground) をリリースした。同アルバムには、これまでにLPU会員限定で公開されてきたデビュー前の楽曲や、サマーソニック06で披露されるも3rdオリジナルアルバムの選曲から外された楽曲「QWERTY」が収録されている。日本では来日記念盤が2009年5月14日にリリースされた。

2009年5月18日、前述した「トランスフォーマー」の続編にあたる2009年6月公開の映画、「トランスフォーマー: リベンジ」の主題歌として「ニュー・ディヴァイド」(New Divide) が書き下ろされ、ビルボードシングルチャートで初登場6位を記録した[17]。前回は主題歌に起用されただけだったが、本曲は映画のために書き下ろされたものである[18]。8月に開催されたサマーソニック09ではヘッドライナーを務め、そのライブ中には、同月に本格始動したチェスター・ベニントンによるソロ・プロジェクト「デッド・バイ・サンライズ」 (Dead By Sunrise) がスペシャル・ゲストとしてパフォーマンスを行った[14]。プロジェクトの1stアルバム『アウト・オブ・アッシュズ』(Out Of Ashes) は9月30日に日本先行で発売された。


アルバム


■オリジナルアルバム
1st 2000年 ハイブリッド・セオリー (Hybrid Theory) 全米最高2位 ダイアモンドディスク獲得
2nd 2003年 メテオラ (Meteora) 全米最高1位 4xプラチナム獲得
3rd 2007年 ミニッツ・トゥ・ミッドナイト (Minutes To Midnight) 全米最高1位 2xプラチナム獲得